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1998年10月「日米防衛協力議論の盲点」(PHP研究所刊『voice』1998年10月号)

憲法の趣旨に合致した装備とは

平成七年の秋から師走にかけて、現行の中期防衛力整備計画(平成八年度から十二年度までの五カ年計画。以下、中期防)の策定が政府・連立与党内で行われていた。私も新党さきがけの責任者として連日連夜、その会合に参加していたが、当時は「自社さ」連立政権ができて、まだ一年あまりしかたっていなかった。自社両党が与野党に分れていた、いわゆる五五年体制下では、社会党は自衛隊を違憲とし、日米安保条約の破棄を主張し、非武装中立路線を採るべきだと主張していた。まさに防衛政策では水と油であった両党が連立を組んだわけで、与党内での防衛問題の調整の難しさは推して知るべしであった。いろいろな対立点はあったが、空中給油機を次の中期防で導入するかどうかは、一つの大きな論点になった。

空中給油機の議論が始まったのは現中期防からではない。後述するが私の知るかぎり、昭和四十七年のF4戦闘機導入に際し、空中給油機に関する議論がもうすでに行われている。また、昭和五十三年の通常国会における予算委員会で、政府は「導入計画はないが、憲法に反するとは考えていない」と答弁している。

研究について初めて明文化されたのは、昭和六十年にまとめられた中期防(昭和六十一年度から平成二年度)からで、「空中給油機の性能、運用構想等空中給油機能に関する研究を推進する」と書かれている。次の中期防(平成三年度から七年度)では、「研究を推進する」が「引き続き(同上)検討を行う」に変り、現中期防では結局、「空中給油機の性能、運用構想等空中給油機能に関する検討を行い、結論を得、対処する」ということになった。十年越しに、ようやく「結論を得」るという文言にまで辿り着いたのである。

ここまで議論が長引いた理由は、費用や機能、あるいは運用面でさまざまな検討が加えられていたことは当然あるが、それとともに、専守防衛に合致しているかどうかという熱い議論が戦わされてきたことも見過すことはできない。

空中給油機は読んで字のごとく、戦闘機などに空中で給油することを主目的とする輸送機である。空中で給油すれば航続距離が延びる。航続距離が延びれば他国への攻撃が可能になるのではないか。これは他国への攻撃は行わず、もっぱら日本の領空・領海、あるいはそれに近い公海上で他国からの攻撃を防御するという専守防衛の趣旨に反する可能性がある。簡単にいえば、以上のような論旨での反対論が繰り広げられてきた。

このようなロジックで、新しい装備に対して懸念・反対論が唱えられたのはなにも空中給油機に限った話ではない。

先ほどふれたように、昭和四十七年にF4戦闘機の導入に際して、「他国に攻撃的脅威を与えないために爆撃装置を取り外すべきだ」、また「航続距離を延ばさないために空中給油装置は付けるべきではない」という議論があった。政府は結局、国会での議論などを考慮し、爆撃装置は取り外し、空中給油装置も付けないことになった。

昭和五十三年にはF15戦闘機、P3C対潜哨戒機の予算化に際し、同様の議論が戦わされた。政府はF15については爆撃装置も空中給油装置も残したまま導入するとしたが、野党はF4導入時の政府見解に反するものであり、専守防衛の方針変更だと厳しく追及した。それに対して政府は「F15およびP3Cを保有することの可否について」という政府統一見解を国会に文書で提出した。その内容を一部引用する。
一 憲法第九条第二項が保持を禁じている「戦力」は、自衛のための必要最小限度を超えるものである。

右の憲法上の制約の下において保持を許される自衛力の具体的な限度については、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わりうる相対的な面を有することは否定し得ない(注一)。もっとも、性質上、専ら他国の国土の潰滅的破壊のためにのみ用いられる兵器(例えばICBM、長距離戦略爆撃機等)については、いかなる場合においても、これを保有することが許されないのは言うまでもない
(注二)。
(中略)

三 F15は、要撃性能に主眼がおかれた、専守防衛にふさわしい性格の戦闘機であり、その付随的に有する対地攻撃機能も限定的なものであること等から、他国に侵略的・攻撃的脅威を与えるようなものでないことは明らかであり、F4の場合のような配慮を要するものではない。

またP3Cは、哨戒および対潜作戦に使用するものであって、他国に侵略的・攻撃的脅威を与えるようなものでないことは言うまでもない。
(後略)

[なお、傍線および(注一)(注二)挿入は筆者]

つまり政府は、F4は核攻撃能力、精密な爆撃照準、遠隔からの対地攻撃能力があるため、他国に誤解を与える恐れがあったので爆撃装置を取り外したが、F15は空対空(空中戦)が基本であり、補助的な対地支援能力しかもたないので取り除く必要はないとした。また、空中給油装置を付けたままにしたのは、後述するが、迎撃上の必要性が増えたことを理由に挙げている。

このように、空中給油機だけではなくF4やF15等の戦闘機、対潜哨戒機P3C、あるいは最近配備されたAWACS(早期警戒管制機)といった新しい装備が導入されるたびに、それが憲法が保持を禁止している「戦力」にあたるのではないか、つまり専守防衛を逸脱しているのではないかという議論が行われてきたのである。

ちなみに、空中給油機について政府は「近年の航空軍事技術の進歩に伴い、わが国に対する航空侵攻に対処する場合に、レーダーが目標を発見してから戦闘機が地上を発進して要撃していたのでは間に合わない場合が生じ得ることから、戦闘機が空中で哨戒・待機する空中警戒待機(CAP: Combat Air Patrol)という作戦が必要となる。このCAPを行う際、空中給油機の導入により、CAP時間を延伸させることが可能となることから有用と考えている」という見解を示している。

また、空中給油を受けた戦闘機の航続距離が延びることによって他国に脅威を与える可能性がないかという疑問については「わが国は専守防衛の考え方に基づいて防衛力を整備しているので、他国の防空網を制圧する機能や、攻撃目標を効率的、効果的に破壊する爆撃能力、いわゆるパワープロジェクション能力を有していない。したがって、空中給油機の保有によって他国への航空侵攻を行うことは実態から見て不可能である」としている。
疑問の多い政府見解

このように、他国への脅威にならないという点をつねに説明しつつ、防衛力の整備が行われてきた。しかし、空中給油機の議論一つとっても、時代とともに「導入計画なし」から「結論を得、対処する」まで変化してきている。実際、先ほど引用した政府統一見解の(注一)にも、「憲法上の制約の下において保持を許される自衛力の具体的な限度については、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わりうる相対的な面を有することは否定し得ない」としている。つまり、具体的には「その時々の国際情勢」と「軍事技術の水準」の二つのポイントを挙げて、相対的に変りうるものだと政府も認めているのである。きわめて弾力的な解釈だ。

しかし一方、かりに「その時々の国際情勢」が極度に緊迫し、また「軍事技術の水準」がきわめて高くなれば、どのような兵器も配備してよいのかというとそうではない。ここで政府は具体的な歯止めを提示している。それが先ほど引用した政府統一見解の(注二)の部分だが、「性質上、専ら他国の国土の潰滅的破壊のためにのみ用いられる兵器については、いかなる場合においても、これを保有することが許されないのは言うまでもない」としている。より具体的には、

  (1)大陸間弾道弾(ICBM)
  (2)中距離弾道弾(IRBM)
  (3)潜水艦発射弾道弾(SLBM)
  (4)長距離爆撃機(B52など)
  (5)攻撃型空母

などを挙げている。さらに「原水爆は持てない。戦術核は防御的なものであれば持てる。巡航ミサイルも長距離の潰滅的なものでは持てないが、核弾頭のない短距離のものは持てる」と具体例を示し、限界を提示している。

もつことのできる兵器が国際情勢と軍事技術の水準などによって変りうる、言い換えれば解釈によって、もてる兵器の水準は際限なく上昇する可能性があるなか、具体的にもつことのできない兵器を挙げてエスカレーションに歯止めを設けたことについては一定の評価ができよう。しかし、この見解を定期的に見直すぐらいの柔軟さが必要だろう。従来の政府見解にありがちな、時代が変っても未来永劫、その解釈を変えないということは厳に慎むべきである。なぜなら、極端にいえば竹槍や火縄銃が主流だった時代の人たちが、戦闘機やミサイルをまったく想像できなかったように、今後、どのような技術の進歩、兵器の変化が起るか予想できないからである。

しかし、これ以上に私は政府見解でいくつか納得できないところがある。

まず私が指摘したいのは、他国への攻撃は行わず、もっぱら日本の領空・領海、あるいはそれに近い公海上で他国からの攻撃を防御するという専守防衛の趣旨と、ミサイル攻撃を受けたときの「敵基地攻撃と自衛の範囲」についての見解との整合性がとれていないことである。

専守防衛について、昭和四十七年に当時の田中角栄首相は衆議院本会議で、「専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土およびその周辺において防衛を行うということでございまして、これはわが国防衛の基本的な方針であり、この考え方を変えるということはまったくありません」と発言している。他方、もしかりに日本が誘導弾等の攻撃を受けて、他にこれを防御する手段がまったくないというような場合には、「座して自滅を待つべし」というのが憲法の趣旨ではなく、敵基地を叩くことも当然、法理的には自衛の範囲に入るとしているのである。この二つは相矛盾する見解ではないか。

いままで確認してきたように、F4やF15の導入に際しても政府はできるだけ航続距離を抑えたり、他国を攻撃するという脅威を与えないように配慮してきた。したがって、誘導弾等の攻撃を受けたとしても、日本は独力でこれに対処する方法を持ち合せていないのである。実際、もしこのような事態になれば、日米安保条約に基づいてその任をアメリカに期待するというのが、現在の政府の公式な見解となっている。

じつはこの「敵基地攻撃と自衛の範囲」に関する政府見解が出されたのは昭和三十一年で、鳩山一郎内閣のときである。その三年後、当時の防衛庁長官が同じ趣旨の答弁を行なったとき、さらにこのように付け加えている。「しかし、このような事態は今日においては現実の問題として起りがたいのでありまして、こういう仮定の事態を想定して、その危険があるからといって平生から、他国を攻撃するような、攻撃的な脅威を与えるような兵器をもっているということは憲法の趣旨とするところではない」と。

この見解が述べられてから四十年以上が経過した。多くの国々がミサイルを保有するようになり、核拡散と並んで、ミサイル拡散も現在の軍備管理において由々しき事態の一つになっている。近隣ではロシアや中国、そして北朝鮮もノドンやテポドンといったミサイルを保有し、日本はその射程圏内に入っている。そのうえ、ロシア、中国は明らかに核兵器を保有しているし、北朝鮮はその疑惑をもたれている。また生物・化学兵器の開発も取りざたされている。「このような事態は今日においては現実の問題として起りがたい」時代から、現実の切実な問題として、報復能力をもつことも真剣に考えなければならない時代に変ってしまったのである。

にもかかわらず、憲法上も認められると政府が公式に述べている報復のための兵器をもつ議論はいまだにタブー視されているきらいがある。もっと現実の問題として真剣にかつオープンに議論されるべきである。
日米安保の双務性を高めるとき

じつは、私はこの意見を述べることに忸怩たる思いを感じている。報復能力をもつべきだと考えるのは、ノドンやテポドンといった北朝鮮が開発しているミサイルが日本を射程に入れ、その脅威を感じているからである。したがって、いま、報復能力をもつべきだという意見は、国民に対しても訴えかけやすい。

しかし、緊張した状況にあるとき、報復能力をもつべきだという議論を行うこと自体、かなり勇気のいることである。北朝鮮内部の情報はなかなかわれわれには伝わってこないが、民主主義国家である日本の議論は容易に北朝鮮の政権中枢部に伝わる。そのことが相手を刺激し、あるいは口実を与えることになって紛争の危険性を高めてしまう可能性も否定できない。中国や他のアジアの国々の反発、懸念も生むだろう。もつべき兵器の内容について国民的な議論を行うのは、まさに民主主義のジレンマである。だからこそ、危機管理というのは常日頃の議論が大切になる。危機が迫って慌てて議論をするのでは、まったく泥縄の【譏/そし】りは免れない。

私はまず、トマホーク型の巡航ミサイルをもつことから議論を始めるべきだと考える。F15などの戦闘機を改造し、対レーダーミサイルやピンポイントで目的を狙えるレーザー誘導爆弾等を装備して対地攻撃が行えるようにすることも一つの考えだが、これだと敵の早期警戒レーダーや通信網を電子妨害する電子戦機や航続距離を延ばすための空中給油機、さらには相手の国の地上部隊監視のための空中指揮機といった、新たな装備も必要になる。これでは、必要最小限度の防衛力とは言い難い大々的なものになる可能性が高い。全面的な交戦を誘発する危険性も孕んでいる。法律、コスト、そして対外的な関係で越えなければならないハードルはあまりにも多い。

また、国民の多くがこのような装備をもつべきだということになれば、拡大解釈でなし崩しに導入するのではなく、憲法改正の議論を正面から行うべきだろう。

トマホーク型の巡航ミサイルは、現在保有しているミサイル護衛艦を改造すれば発射はできるようになる。また、すでに打ち上げが決っている情報収集衛星から、あらかじめポイントとなる地点とその地点までの地形などを事前にインプットすることが可能になる。さほど、新たな防衛費の増大につながることはないし、何よりも、報復が限定的、抑制的に行えるメリットはある。

ちなみに政府は国会答弁で、相手を潰滅的に破壊するものでなければ、地上を攻撃する巡航ミサイルを報復目的でもつことは憲法上も認められると述べている。

報復手段をもてば、どんどんと紛争がエスカレートするのではないかという疑念があるが、そのような面があるのは事実である。しかし、現在でも米軍はそのような能力を十分有しており、日本が攻撃を受ければ日米安保条約に基づいて、その任をアメリカに期待することになる。つまり、エスカレーションの議論は現在も存在するものなのである。

私が投げかけている問題提起は、いったい誰が報復を行うかという点にある。年間、約四兆九千億円の防衛費を使い、一隻が約一千三百億円もするイージス艦を四隻、一機が約五百七十億円のAWACS(早期警戒管制機)とE2C(同じく早期警戒管制機)を合わせて約二十機、そして一機が百億円あまりするF15やF4戦闘機を約二百六十機ももちながら、現代では戦われ方の主力になりつつあるミサイルの攻撃を受けたとき、憲法も認めている報復能力がなく、同盟国であるアメリカに肩代りをしてもらうというのはどう考えても納得できる防衛力整備とはいえない。

私は日米安保条約はこれからもたいへん重要だと考えている。アメリカの圧倒的なパワープロジェクション能力。世界中に展開する艦隊等により確保されているシーレーン(海上航行路)。そして核抑止力。どれ一つとってみても、日本が独自にそれだけの能力をもつことは費用、技術、そして対外的な関係上、不可能であろう。中国・北朝鮮を除くアジアのほとんどの国々も、日米安保の継続、ひいてはアメリカのアジア・太平洋地域におけるプレゼンスを引きつづき期待している。

たしかに、同盟関係というのはよいことばかりではない。同盟国から軍事面での恩恵を受けることができる一方で、同盟国と敵対関係にあったり、関係があまりよくない国からは、アメリカと同様、敵意に満ちた視線で日本も見られることになる。冷戦時代、日米安保を結ぶことによって日本はソ連の攻撃目標になり、より危険ではないかという議論があったのは、まさにこの理屈からである。つまり同盟関係というのは「両刃の剣」なのである。自国にとってのプラスとマイナスを両方勘案し、プラス面が大きければ、同盟関係を続けることになる。

日本は戦後五十年余を見ても、日米安保によって防衛費にそれほど予算をかけず、経済成長重視でやってこれた。日米安保はトータルで考えても大きなプラスであったと私は思う。しかし歴史上、ずっと続いている同盟関係があるだろうか。安全保障というのは危機管理の最たるものでなければならない。にもかかわらず、アメリカとの同盟関係を絶対と考え、自らの安全保障をアメリカに頼りすぎ、自助努力を怠ってきた。アメリカが日米安保を不必要だと考えるときのシナリオは背筋の凍る思いがする。つねに日米安保自体のリスクマネージメントもしておかなければならない。

そのためには日米安保の双務性を高める必要がある。つまり、報復手段である巡航ミサイルなどを日本は保有し、自分の国は最小限自分で守れる仕組みをつくること。また、日米防衛協力を緊密化し、日本の周辺で起きる紛争に対しては、準日本有事と認定し、その場合には集団的自衛権の行使ができるように憲法解釈を変更することによって、日米安保をアジア・太平洋地域安定のための公共財として役立てることが必要だ。
BMDで欠けている議論

政府の見解で納得のいかないもう一つの点は、攻撃用兵器と防御用兵器を便宜的に分けているところである。専守防衛を旨としているため、攻撃兵器はだめで、防御兵器ならよいという使い分けをしてきたのである。しかし、いったい兵器に防御用と攻撃用の区別など厳密に行えるのだろうか。

実際、政府も昭和四十六年五月に開かれた衆議院内閣委員会で、当時の防衛局長が「まず攻撃兵器と防御兵器の区別をすることは困難であるということは、外国の専門家もいっておりまするし、われわれもそう思います。なぜならば、防衛的な兵器でありましてもすぐに攻撃的な兵器に転用しうるわけでありますから、したがいまして私どもが区別すべきものは、外国が脅威を感ずるような、脅威を受けるような攻撃的兵器というふうに見るべきではなかろうか、そう思います」と述べている。

しかし、防御兵器なら専守防衛に資するからよいのだという安易な議論が、とかく行われがちになる。たとえば、現在話題になっているBMD(弾道ミサイル防衛)の議論がそうである。このシステムは、一口でいえば、飛んできた中長距離射程のミサイルに対し、こちら側もミサイルを発射し、迎撃することによって無力化しようというものだ。現在、射程の長いミサイルが撃ち込まれればそれを防ぎようがないわけで、アメリカがSDI(戦略ミサイル構想)の流れのなかで中心的に研究を行なっており、日本もある分野への研究参加を積極的に求められている。

私はなにもBMDに反対しているわけではない。日本はBMDの研究に積極的に参加すべきだと考えている。

昨年の暮、私はわが党の訪米団団長として五日間、ワシントンDCを訪れた。目的は朝鮮半島情勢の意見交換とBMD研究に関して参加の是非を決めるための情報収集であった。意外だったのは、アメリカの政府、議会、研究者の多くが日本の研究参加を期待はするが、強要するという姿勢を示さなかったことである。キャンベル国防次官補代理にしても、あるいはロス国務次官補にしても、異口同音に「日本の参加は期待したい。そうなれば研究・開発期間はかなり短縮されるのではないか。しかし、それは日本自身が決めることだ。われわれはイラクや北朝鮮などのミサイル開発に脅威を感じている。また国家でないテロ集団やミサイル保有国の誤作動による発射も今後深刻な問題だと考えている。したがって他国の協力があろうとなかろうと、BMDの配備に向けて国を挙げて取り組んでいく」と述べていた。

日本も北朝鮮をはじめ、他国からのミサイルの危機を感じはじめている。BMDがものになろうが、あるいは失敗しようが、同盟国として同様の危機感を共有しているのであれば、お互いの技術を出しあって成功するように努力すべきではないか。本来、イコールパートナーシップとはこのようなものだと私は思う。そして、配備については、研究・開発がうまくいった段階で考えればよい。実際、アメリカにおいてもBMDの実験は失敗が続いており、配備は別個に考えられていることも付け加えておきたい。

私がBMDについていいたかったのは、防御兵器だからよいというのはきわめて安易であるということだ。そもそも、防御兵器と攻撃兵器は厳密に分けられないし、また防御兵器は攻撃兵器に容易に転用しうるということは先ほども触れた。さらに、防御兵器の充実は軍事力のバランスを崩し、かえって情勢を不安定化させる場合がある。

中国は日本のBMD参加に激しく反発し、警鐘を鳴らしつづけている。BMDはあくまでも防御兵器であり、他国に脅威を与えるものではないと説明しても、中国は聞く耳をもたない。理由は簡単で、日本の防御システムがより強固なものになれば、中国の攻撃的兵器、たとえばミサイルが相対的に無力化してしまうからである。

米ソ冷戦時代、両国はおもしろい条約を結んでいる。一九七二年に結ばれたABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約がそれで、当時はまだ開発されていなかった迎撃ミサイル数をお互い制限しようという内容だった。つまり、防御兵器はMAD(相互確証破壊:「気が狂った」を意味するmadにかけている)といわれた「恐怖の均衡(パリティ)」を崩す。そのことによって核の先制使用の機運が生れかねず、核戦争の可能性が増える。それを防ぐために冷戦を戦っていた米ソ両国がデタント(緊張緩和)の流れのなかで、攻撃兵器ではなく防御兵器をお互い制限しようという条約を結んだのである。

このように、防御兵器なら盲目的によいという日本の考え方は、世界の常識から考えると少し奇異なものに感じられる。これも憲法解釈という呪縛から抜け切れないでいる所産である。また、費用対効果という観点からすると、防御兵器はかなり高くつくのではないか。私は核をはじめとする大量破壊兵器は今後廃絶の方向に努力すべきで、日本は保有すべきではないと考えるが、純軍事的に見ると、核兵器というのは最も安く、相手の攻撃を抑止する効果をもつという一面もあるのである。このような観点からも、トマホーク型の巡航ミサイル導入の是非を議論すべきである。
憲法改正と政治の責任

最後に憲法との関わりについて触れておきたい。本稿で私は、巡航ミサイルをもつことはいままでの憲法解釈上も認められると主張した。また、日本に危機が及びそうな周辺地域での紛争時は、準日本有事として、憲法解釈を変更することによって集団的自衛権の行使をすべきだとも述べた。

さらに、防御兵器と攻撃兵器を分けるのはナンセンスで、もっと軍事的な側面から保有する兵器を考えるべきだとの考えも示した。これらはすべて、現在の憲法の枠内で、また憲法解釈を変えることによって、あるいは憲法解釈でも認められるというきわめて技術的な面を立証して、行うべき行動あるいは保有すべき兵器を提言しているように見えるだろう。回りくどく、ややこしく、あるいは隔靴掻痒の感をもたれる方がおられるかもしれない。

私は、憲法は改正すべきだと考えている。しかし、憲法の改正は国民の多くが納得し、王道を歩むように変える必要がある。七〜八割の国民が納得したうえで行われるべきである。それが憲法の基本理念である基本的人権の尊重、国民主権、そして平和主義を継承する術だと思う。そのためには多少の時間はかかるだろうが、憲法改正の議論はけっして焦ってはいけない。時間をかけることが必要だ。

しかし、安全保障は日本を取り巻く環境や軍事技術の進歩といった実態が密接に絡んでくる。これは機敏に対処しなければならない問題だ。しかも防衛方針を決定し、装備を発注して配備するにはそうとうの時間がかかる。たとえばBMDでも研究・開発が今後うまくいったとしても、実戦配備にはあと十年ぐらいはかかるだろう。

したがって、憲法改正がたとえ筋論であっても、憲法解釈を変更したり政府見解を技術的に深く読み込むなかで、実態にできるだけ機敏に対処させる必要がある。そして、これこそが政治の責任だと私は考えている。