|
◆
高坂正堯没後10年「遺された『責任ある国家』という課題」(中央公論新社刊『中央公論』2006年12月)◆
座談会:五百旗頭真(防衛大学校校長)×前原誠司(衆議院議員)×細谷雄一(慶應義塾大学助教授)
イラク戦争、北朝鮮問題・・・日本が国際的な危機への対応を問われる機会は増すばかりだ。危機のたびに聞かれるのは、「高坂先生ならどう考えただろうか」という声。没後10年を経ながら、ますますその意義を深める。
高坂正堯氏の思想を通して、氏にゆかりの深い論者たちが日本外交の行方を読み解く。
新風を呼んだ論壇デビューから湾岸戦争での怒りまで
細谷:1996年に高坂正堯先生が亡くなり、今年で10年が経ちました。
私は高坂先生と個人的な接点はありません。それでも国際政治学者として、さまざまなメディアを通じて多大な影響を受けました。それどころか、本でしか高坂先生を知らないはずの私のゼミ生の中にも、1966年に発表された新書『国際政治』を読んで感銘を受け、国際政治を学びたいと志した学生がいる。それだけ先生の学問が歳月を経ても魅力を保っている証拠だと思います。また、何か世界史的な事件が起こると、「高坂先生ならどう考えただろうか」という声が今も聞こえてくる。その存在感、学問的意義は今も失われていません。
高坂先生は62年9月にハーバード大学から帰国、63年1月号の『中央公論』誌上に「現実主義者の平和論」を発表し、論壇デビューを飾ります。
今日は直接高坂先生の教えを受けたお二人に話を伺いたいと思うのですが、五百旗頭先生は、ちょうど63年の入学ですね。あの時代に吉田外交や現実主義を擁護することには、今からは想像できない難しさがあったと思います。高坂先生も「勧められて飛び降りてみたら、まわりはすべて敵であった」という言い回しをされていますね。
五百旗頭:戦後平和主義、左翼思想が主流だった学界からは、「あんな御用学者みたいな奴が登場するとは世も末だ」と非難囂々でした。しかし他方、全面講和論から第5福竜丸事件、そして60年安保に至る中でjの、左翼的な議論に違和感を覚える層もいました。
その思いをうまく?んだのが、『中央公論』の編集者だった粕谷一希さんです。?山道雄さんから勧められて、ハーバード大学から帰国後の高坂先生にすぐに会いに行った。丸山眞男に象徴される戦後日本の知的世界の、次の局面を生み出すかもしれないという期待を持って、名伯楽は説いた。そして高坂先生がそれに乗って書いたところ、「まわりはすべて敵であった」。(笑)
しかし、粕谷さんの感覚も間違っていなかった。高坂先生の登場により、新鮮な空気が流れ始めました。当時の私のような若者にとって、左翼の書くものは、一定のパターンに沿っており退屈だった。その点、先生の文章は歴史と人間への洞察、そして政治・外交への感覚に富み、新鮮で、かつ味わいがありました。最近の政治理論をそのまま適用するのではなく、生身の人間や事態を大切にするところから生まれてくる言葉なんですね。
細谷:私は丸山眞男先生の文章も大好きなのですが、丸山先生のそれはアルコールのような独特な中毒性のあるものだと思います。一方、高坂先生の文章は温かいお茶のような柔らかさと爽やかさがありますね。
五百旗頭:そして「現実主義者の平和論」の事例として、65年に『海洋国家日本の構想』を発表します。これは科学技術が知性的環境を変えていく中、戦後日本が海洋国家、通商国家として生きることの合理性を論じたものです。
同時期に司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で、通商国家としての近代日本を構想した坂本竜馬を描き、その後の日本が大陸国家として破綻し、戦後ようやく海洋国家路線に戻った歴史を浮かび上がらせた。高坂先生は同じことを国際環境の中の日本を語ることで示しました。30台半ばでの仕事ですから、規格外の存在だったと思います。アメリカに、いわば「亡命」していたことで育まれた面もあるでしょう。
吉田茂の方向性を、その教え子の池田隼人が引き継ぎ、経済国家としての日本を生み出していく流れを、高坂先生は承認した。そのことから彼を「体制的現実主義者」だという見方もありますが、実際には時代に抗してきた面も強い。
吉田路線の擁護も、60年安保の空気に抗したものです。その後、社会は高坂先生の示した方向をひた走り、高度成長を進めましたが、それも手放しで喜んではいない。池田政権や佐藤政権に対して以外に厳しく、その浮薄さや退屈さを指摘しています。そして、経済に重点をおくのは必要だけれど、それに没してしまってはならない、と警鐘を鳴らす。
その警告どおり、70年代に石油危機が来て、日本は揺らぐ。すると彼は「私は世界の工業文明と日本がこのまま駄目になっていくとは思わない」と悲観論を退けます。そして日本は危機を乗り越え、80年代に最強のモノつくり国家になる。その過程で高坂先生は歴史に関心を移し、『古典外交の成熟と崩壊』(78年)や『文明が衰亡するとき』(81年)などの著作を発表します。
実は、それらの著作を発表する前の70年代後半、高坂先生は家庭の問題や、沖縄博覧会をめぐる左翼学生との団交に苦労されていた。
「理屈で学生に負けるとは思わん。しかし、ああ集団的にやられるとね、夜中に目が覚める。身体がやはり堪えてるんやね。だから紛争大学の学部長が胃がんになるのはようわかるわ」と言っていました。
それが『文明が衰亡するとき』のあとがきに、「要するにこの書物は、昔から書きたいと思ってきた本である。漠然としたものとはいえ、子供のときから思ってきたことを実現できたのだから、私は幸せだと思う」と書かれた。私は、先生が新境地を開いたと感じましたね。その後は、いわば「日本文明を語るお父様」といった雰囲気でした。
しかし、91年に勃発した湾岸戦争に際して、日本は屁理屈ばかりこね、国際的な役割を果たせなかった。このことに対する高坂先生の怒りは激しかったですね。それから九六年に亡くなるまで、「闘う人」になっていた。
先生には、常に「日本文明はこれでいいのか」という思いがあり、そこから現在の問題を考えていました。激しい怒りとして現れたのは湾岸戦争のときだけだったかもしれませんが、内面的にはいつも闘いがあったのではないでしょうか。
教育者としての顔
細谷:高坂先生の業績を考えると60年代と80年代に一番エネルギーが充実していた。その時期にお二人は学ばれたことになりますね。
五百旗頭:大学2年生のとき、高坂“助教授”の予備ゼミに入りました。私は猪木正道ゼミだったのですが、猪木先生も論壇時評などで高坂先生を絶賛していました。私は猪木先生の著作に惚れ込んでいましたから、仮に高坂先生のゼミがあったなら、どちらに入るか悩んだことと思います。
前原:私は浪人時代に先生の著作に出会ったのがきっかけでした。そのころ、勉強から逃避するため、手当たりしだいに本を読みました。知的好奇心も芽生えてくるころですし、難解な本を読んでいる自分への自己陶酔というのもあったかもしれません。
カントの『恒久平和論』や坂本義和さんの論文も読んだのですが、どうも納得がいかなかった。そこで出会ったのが高坂先生の『国際政治』でした。ようやく自分にぴったりくるものを感じ、目標を持つことができ、高坂先生のいらした京都大学法学部に入学しました。
ゼミに入ってからも、いろいろな角度から物事を検証される高坂先生の姿勢には感銘を受けました。たとえば坂本義一さんとの議論でも、評価される部分は評価しながら、批判するところは厳しく批判している。我々学生の稚拙な意見も「そういう考え方もあるわな」と一度は認めてくださる。しかし、「こういう視点から物事を考えてみたらどうや」と投げ返され、また考える。
政治家になってからも、何度もお宅に伺い、指導を受けましたが、先に結論をおっしゃることはなかったですね。亡くなる1年前の95年に沖縄で米兵による少女暴行事件が起こり、反基地闘争が激化したことを受け、アドバイスをいただきましたが、「君はどう思うんや」と、まずは私の意見を聞かれた。そこで「海兵隊をアメリカに移したほうがいいと思います」と申し上げると、「5年早い」とおっしゃった。ただ、5年の意味はおっしゃらない。自分の頭で考えろという姿勢は一貫していました。
また、学生思いでもあり、ゼミ旅行やソフトボール大会があれば、テレビの『サンデープロジェクト』も休んで参加してくださいました。
五百旗頭:時々休まれていた理由がわかりました(笑)。教え子は、誰もが高坂先生に大事にされたという思いを持っているのではないですか。
前原:なくなって10年経った今も「高坂会」が継続しているほどです。学者だけが集まっているわけではなく、むしろサラリーマンが中心になって会が続いている。みな先生の人柄をしたい、また先生に教わったことを人生の支えにしているのだと感じます。
現実政治との係わり合い
細谷:現実に向き合った高坂先生だからこそ、実業界や政界に入った人たちにも浸透したのでしょうね。
高坂先生の現実社会へのコミットとしては、佐藤内閣や大平内閣のブレーンとしてのかかわりが上げられます。そこで面白いのは、「大体、学者・知識人の考えたことを政治家が実行するというのでは、現実に巧くいくわけがない。しかし、政治家が目指していることの正当化あるいは理論づけを学者・知識人に依頼してもその持ち味は活かされない。(中略)両社がそれぞれ独立に考え、行動しながら、お互いに啓発されるというのがあるべき姿なのである」とろんぶん「佐藤栄作―『待ちの政治』の虚実」に書いていることです。
佐藤内閣の秘書官だった楠田實さんも、「高坂先生の政治との付き合い方は非常に好ましかった。適切な距離感を保ち、関与しすぎることがなかった」と言っていました。
五百旗頭:楠田さんは「高坂先生は怠け者だった」とも言っていましたね。自分の意見を気張って政策に反映させようとする学者もいる中、あまり意見を言わない。味わいのある話をすればいいと思っている。
しかし、それが帰って影響力保持につながっていた。普段、あまり踏み込んでこない高坂先生が、あるときヨーロッパから帰国して、官邸を突然訪れた。楠田さんが総理の不在を告げると、「これからは環境を大事にせないかん、ヨーロッパでは今大事な認識になっている」とだけ言って立ち去った。佐藤総理は後でその話しを聞いて、感じるところがあったようです。70年の「公害国会」の少し前の話です。
前原:高坂先生の政治との距離感と聞いて思い出すのは、東京に拠点を設けなかったことです。「京都と東京の距離感がちょうどいいんや、東京にいると見えないことも見える」と話していました。
細谷:吉田茂でさえ、5時間にわたりしゃべってしまう。政治家との独特な距離感がいいのでしょうね。同じ政治家として、知識人とのかかわりをどう考えますか?
前原:情報が溢れる今、メディア政治、大衆迎合的な政治の波が押し寄せています。その波に政治家自身も飲み込まれかねず、政策判断が難しくなっているケースが多いと思います。
たとえば私が政治家になって大変頭を悩ませた問題に先ほどの沖縄少女暴行事件がありましたが、もうひとつがイラク戦争でした。高坂先生が生きておられたら、どうおっしゃるのか、一番聞きたい状況でした。
私は外交を考えるとき、いつも自分が与党か野党かではなく、日本の国益に照らし合わせてどうかを考えるようにしています。
五百旗頭:民主党内からは批判もあったと思いますが、たとえば有事立法などはサポートされましたね。
前原:はい。それでもイラク戦争はどうも腑に落ちなかったのです。しかし、あの時はマスコミでも、イラク戦争への協力に反対する野党はとんでもない、という意見が圧倒的で、疑問の声など上げられない状況だった。
だからこそ、当時ご一緒した「サンデープロジェクト」で五百旗頭先生がイラク戦争に疑問を呈したのは大変な勇気だと感じました。そして、イラクが内戦状況に陥り、テロが頻発する世界情勢と不安定な中東をもたらしたことを考えると、正しい判断でした。
五百旗頭:当時、私を反対派、北岡伸一君を賛成派として、イラク戦争について両論を掲載した新聞がありました。傍目からは二人の立場が対立しているように見えたかもしれませんが、彼もイラク戦争は問題と思っていた。しかし、北朝鮮や台湾海峡という問題を抱える日本にとって、アメリカとの関係は死活的に重要であり、ほかに選択肢がないと考え、発言していたのです。つまり私と彼の間には意外に差がなかった。思うに、高坂先生がいらしたら、両者の議論を踏まえた、見事な論文を書かれたんじゃないでしょうか。
イラク戦争の評価
前原:現代の外交において、民意は政策決定を大きく左右します。
外交・安全保障問題を専門と自負している政治家の端くれとして、アメリカと組むしかないイギリスのブレアの苦悩はよくわかりました。しかし、ブレアはそのために政治家としてボロボロになってしまう。私は国のために、一人の政治家が歴史の歯車として使い捨てにされるのは構わないと思います。後世の歴史家の評価を待つしかない。ただ、過度にアメリカに同調することは、国民に対米関係の重要性をかえって見失わせるのではないでしょうか。
五百旗頭:その危険性はありますが、一方でブレアもブッシュもイラク戦争で傷つくなか、小泉前首相だけ無傷だったのは驚くべきことですよね。
私は、イラク戦争に疑問を呈したことが間違っていたとは思いませんが、同時に小泉前首相の責任感を認めたいと思います。自分の政権期間内に、陸上自衛隊の撤収を完了させたことは見事でした。ベトナム戦争はもちろん、日中戦争やシベリア出兵を考えてもわかるように、撤退は大変なものです。
イラク戦争によりテロが激化する懸念は的中しましたが、撤収に苦労し、小泉政権がぐらつくという不安は、その政治力により覆されました。
細谷:イラク戦争は正しい戦争か間違った戦争か、という議論がよくなされますが、その議論の立て方は不完全だと思っています。簡単な戦争と難しい戦争という軸も重要です。たとえば湾岸戦争は、善悪を判断しやすい比較的簡単な戦争だった。ただ、クリミア戦争や第一次世界大戦のような戦争は、原因も解決策もわかりづらかった。イラク戦争も同様です。
ですから、私はイラク戦争への賛否よりも、お二人のように難しい戦争と自覚して苦悩したか、それとも安易に答えを出したか、その差が重要なのだと思います。
五百旗頭:そのように深く考え、問題の本質がメディアで一般に考えられているものとは違う点にあると説かれたのが高坂先生の特徴でもありました。
米中との距離感
細谷:高坂先生の言葉を見ると、「われわれは逆の意味でアメリカを過剰に意識する傾向からも脱却しなくてはならない」「われわれは米中の谷間に生きているのではなく、丸い地球の上に生きていて、さまざまな個所とつながっているのである」と論文「世界政局はどう転換するのか」で書かれています。
高坂先生の著作を読み返すと、「アメリカだけを見ていてはダメだ、世界とつながっていることを考えよ」と繰り返し主張している。どうしても吉田路線への評価、日米強調という面にばかり目を奪われがちですが、地球規模で考えることも強調されているのです。
前原:政治家として駆け出しのころ、アメリカとの距離感について言われたのを思い出します。
また、アメリカについての言葉で印象的なのは、我々が大韓航空機撃墜事件にショックを受けていた八三年に、「アメリカは喧嘩した国と仲ようなるだろう。みんな見てみぃ、アメリカはソ連と仲ようなるかも知れんぞ。もっとも、そのときソ連という国はなくてロシアになっとるかもしれん」とおっしゃっていました。
五百旗頭:それはお見事。高坂先生は「冷戦の終結を予言した者は誰もいない」と書かれていたと思いますが、自分が予言していたんですね。(笑)
前原:ただ、アメリカについては自分自身が現実の政治の中に身をおいて、知ることが多かったですね。アメリカと一口で言っても、国務省もあれば国防総省もあり、共和党もあれば民主党もある。その中にさまざまなグラデーションもある。それにアメリカは政権交代がドラスティックに行われますから、今は野にいてもいずれは権限を持つかもしれない。その多様性を感じました。
今、日本とアメリカの関係で難しいのは、高坂先生がご存命のころは、アメリカのどのセクターでも日本に対する関心が高かった。しかし、今は中国への関心が強まっている。昨年日本に来たアメリカの国会議員は10名そこそこ、一方で中国には150名以上が訪れています。アメリカとの関係はもちろん重要ですが、単なる二国間関係ではなく、他の国々との総合的な外交力が問われる時代にあります
五百旗頭:外交の総合性はとても重要ですね。実はその点、高坂先生は意外に国の好き嫌いがあった。「わしは“中”のつく国が嫌いだ」と。中国、中東、そして中部ヨーロッパのドイツですね。物事を静かに深く読み込み、奥行きをたたえながら発言する、という先生のスタイルからすれば、この三つが持つ「激しさ」を嫌うのは理解できます。中国は大国でありながら、それに応じた落ち着きや責任がなく、まるで思春期のよう。中東は今もなお火種となっていますし、ドイツも同様の存在として20世紀を送りました。
猪木正道先生に連れられて、中国を一度訪れていますが、猪木先生はそのときの話をされていたけれど、高坂先生はあまり中国での体験を披露された覚えがないですね。
前原:聞いたことがないですね。
五百旗頭:そうでしょう。もちろん、そんな好き嫌いは地球的視野で考えたり、総合的な外交を考えたりする際には制約になりますよね。高坂先生もそれは理解していたから、「中国はあんたらの世代の問題や」と教え子たちに言うわけです。
これは小泉さんの立場に似ているかもしれない。自分は靖国問題にこだわって、中国に小突き回されない日本を示し、その後は次に任せた。安倍さんがそれをきちんと受け止めた点は評価したいと思っています。高坂先生は「中国嫌いやから」と冗談めかしていたけれど、今は中国と向き合わなければならない時代です。まさに前原さんの世代の課題でしょう。
朝鮮半島危機と軍事的覚悟
細谷:やはり外交は連立方程式で動いているんですね。現在の朝鮮半島危機を解決するためには、中国の圧力が必要です。そして対中交渉では、強固な日米同盟の存在が生きる。ところがアメリカとの関係を強化するためには、米軍再編や集団的自衛権の問題を通して、アメリカの安全保障上の行動に対して世界規模でともに歩むだけの覚悟が求められる。つまり、北朝鮮問題は日本が地球上の紛争にどこまでコミットする覚悟を持つか、という問題にまで行き着くのです。だから北朝鮮問題が大事で、中東は関係ない、という話にはならないはずです。
前原:92年の『日本存亡のとき』で先生も指摘されていますね。私が初当選して「代議士になった夜」とサインをしていただいたので、よく覚えています。
細谷:高坂先生がかかれたときは、まだ北朝鮮の核開発が問題になる前でしたが、「朝鮮半島の問題をできるだけ国際的な文脈で解決することこそ、今後のわれわれの中心的原則でなくてはならない」とあります。さらにその後の言葉が思い。「すでに述べた点(軍事的には一切かかわらないといった立場をとることはできないということ)について覚悟を決めることなしに参加はできないのである。その点を忘れた2+4論は、外交をおしゃべりと取り違えたものというほかない」。まさに現在の6者協議の行き詰まりを予見したような文章ですが、日本が軍事的な覚悟がないまま奇麗事を言い、道徳的に優位に立った気になっているのは、むしろ退廃であると批判されている。
五百旗頭:高坂先生の活躍された時代は、日本が国際社会のごまめとしてスタートし、だんだんと巨人になる過程でした。しかし日本は、巨人としての責任感を持てなかった。それへの怒りを、先生は湾岸戦争で爆発させました。
細谷:今、朝鮮半島をめぐる議論は、核武装論のような過度な強硬論と観念的な平和論という、極端な両論に分裂しているように感じます。十分な軍事力を持って圧力をかけていこうという、高坂先生の言葉を借りれば「妥協と強腰の綾」というものが欠けているのです。
五百旗頭:日本は吉田政権以来、アメリカに対して信用を積み重ねてきました。高坂先生の登場以降、国民も吉田路線をサポートするようになります。また、先ほど前原さんが紹介した「戦った国と仲ようなる」というアメリカの特徴どおり、かつて激しく戦った日本をぞんざいに扱っていいものではない、という認識があるかもしれません。
アーミテージ前国務副長官も前原さんに対して、北朝鮮による日本へのいかなる攻撃もアメリカに対する攻撃と同然であると明言しましたね。
前原:ええ、2003年の2月26日のことですね。
五百旗頭:これが日本にとって大変な力になっている。自分で核武装をするよりも、アメリカの力を利用しながら、外交努力を続けることを忘れてはいけないと思います。
もちろんアメリカの力を利用できるから問題ない、では済まない事態もあるでしょう。後方支援以上の役割を負う覚悟の必要な局面もあるでしょう。それでも基本路線はあくまで、アメリカと築いてきた関係という大事な資産を活かすことです。
九九歩までは来た
細谷:現在、国際社会は北朝鮮をずいぶん追い詰めました。ただ、追い詰めたときは、ゴールに近づいているようで、相手が暴発すれば本来の意図からもっとも遠い結果に陥るという難しさがあります。
たとえば「パールハーバー」は失敗の典型例でしょう。一方、ブルガリア問題で暴発寸前だったロシアをイギリスとドイツが止めた、1878年のベルリン会議は成功例です。ビスマルク、ディズレーリ、ソールズベリという稀有な政治指導者たちによる成果で、高坂先生が好きな種類の、深慮ある外交だと思います。
五百旗頭:ABCD包囲網により、在外資産を凍結されたことで戦前の日本は暴発した。今の北朝鮮問題もこの「真珠湾シナリオ」に乗っていると思います。もちろん北朝鮮が自爆することは合理的にありえないと思いますが。
ただ、キューバのカストロのようにあれほど締め付けたのに、アメリカのお膝元で天寿を全うするケースもある。そして真珠湾とキューバの中間に成功例がある。レーガンの対ソ外交、ニクソンの対中外交のような芸当もできる奥行きを持っているのがアメリカです。
ちなみにレーガンにせよニクソンにせよ、和解を成し遂げたのはいずれも共和党タカ派の大統領。民主党のハト派が和解するのは、国内の政治力学上容易でない。仮に2年後に民主党政権が成立すれば、難しい舵取りが強いられるでしょう。日本外交の真価が問われる難局ですね。
前原:しかもイラク戦争で流動化した中東、特にイランの問題もあります。時間的には99まで進んでいるのかもしれませんが、最後の一しだいで・・・。
五百旗頭:まさに「99歩を持って半ばと巣」ですね。アメリカにとっては中東が主要な関心事なため、極東に関しては少し「遊び」が生じていた。そのために帰って、うまく進んできた面があります。つまり、日ごろ関係のよくない中国やロシアとも、アメリカが力を振りかざさなかったことで、手を組むことができた。
ただ、その限界が今回の北朝鮮の核実験で見えてきました。アメリカは依然として中東を最重要と見ているだけに、日本の現場判断が大事です。もちろん情報はアメリカが断然持っているわけですが、高坂先生的な「賢慮」を日本が持たなければ、他を頼って済ませられない状況だと思います。
前原:日本は現在、非常にいい状態で北朝鮮問題に対峙していると思います。七月に北朝鮮がミサイルを発射した際、中国との関係が冷え切っていたにもかかわらず、非難決議をまとめたのは見事でしたし、それが前振りとなって、今回も決議をまとめられたと思います。次に日本は独自の経済制裁を進めることになる。ここからが日本外交の力量の問われるところでしょう。
そこで重要なのは、高坂先生が重んじられた「中庸」の路線で進んでいけるか。北朝鮮の核保有は認めないという意味を込めて、より強いメッセージを送るとともに、制裁の実効性を求めることが大切です。そこでは、アメリカが行う船舶検査に協力しないといった選択肢はありえない。いかに実態に合わせて法的にクリアしていくかが問題です。
北朝鮮が暴発した際に被害を蒙る日本としては、ミサイル発射の際に国連決議の採択で果たしたような指導的役割を今後の外交交渉でも果たさなければなりません。最終的には米朝直接交渉が重要だと思いますが、米朝の対話を促しながら、北朝鮮の逃げ道を塞ぐという、外交の総合力が必要です。
五百旗頭:高坂先生が『日本存亡のとき』に書かれていたように、日本は19世紀に開国して、近代化に間一髪間に合った。ドイツ、イタリアと同時期にスタートし、前提が違うにもかかわらず、彼らと伍して大変なスピードで変化しました。
高坂先生が心配していたのは、冷戦後もまた世界が大きく変わり、すべてをアメリカに任せておけばいい時代ではなくなった。それなのに日本はまるで体制を変えられない国内状況にある。果たして今回の激変に日本は間に合うのか、ということでした。
その後の日本を見ていると、また間一髪間に合いそうなところまで来ているように思えます。アメリカの完全な庇護下から抜け出し、荒々しい国際政治の中で、自分が間違えば血が流れるという場面に身を置き、平和と力の問題に対処し始めた。これは日本にとって革命的な変化です。そこでは核を持てばいい、喧嘩腰で挑めばいいという単純な話ではなく、節度を持った力の行使や、外交交渉の巧みさが必要とされている。
日本は高坂先生の問いかけに99歩まで答えたのではないでしょうか。そして今、最後の重大な一歩を進めるか。高坂先生もきっと見守っていることでしょう。
以上
|