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◆「親父と罐へのレクイエム 〜九州に憧れの蒸機を求めて〜」(株式会社ネコ・パブリッシング刊『国鉄時代』平成18年2月 23巻第3号)◆

京都に生まれ育った私だが、両親の里である鳥取県境港を、毎年夏に行き来したことが鉄道に興味を持つきっかけとなった。小学4年のとき、カメラを持って梅小路機関区を初めて訪れた。もう既に山陰線のC57の姿はなく、入換用のC11と8620、ナンバーを外されたC50、そして保存用に一足先に旭川からやってきたC55 1がいただけだった。それでも、それ以来、私は蒸気機関車の虜になった。時には一人で、時には親父と、草津や奈良、柘植、亀山、伊勢市、そして米子や浜田まで足を伸ばした。

私の欲望はどんどん広がっていった。お年玉を貯めて、一人で九州を回る計画を密かに立てた。どうしても会いたい蒸機達がいた。その計画を打ち明けたとき、両親は猛反対した。小学5年の子供が、一人で何日も夜行列車を乗り継いで蒸機の写真を撮りに回るなんて、私が逆の立場でも、当然反対しただろう。だが、私は折れなかった。数日後、親父が私に話しかけてきた。仕事を休んで一緒に回ってやると。

昭和49年4月の初め、おそらく急行「日南」だったと思うが、京都から夜行列車に乗り、一路九州へ向け出発した。車中では何度も何度も『SLダイヤ情報』を見て、運用表を確認した。小倉で降り、再び折尾で乗り換え、まずは若松を目指す。途中、ウヤでなければ奥洞海と二見の複線区間でD51かD60の貨物(試8791レ)とすれ違うはずだ。窓を開けてカメラを構える。やってきた。シャッターを押す。あっという間に通り過ぎたが、牽引機は今回のお目当ての一つ、D60 6 1だった。

若松ではD51、D60、8620、9600を撮影する。残念ながらD60 22はプレートが外されていた。直方に向かうつもりが、気動車の故障で筑豊線が不通になり、小倉から日田彦山線で後藤寺に向かう。後藤寺と次の行橋は9600のオンパレードだ。行橋にはC11や9600など何輌かの廃車体があったが、その中にC55 19があった。かなり錆び、プレートやロッドが外されていたが、スポーツ動輪にしばし見惚れた。
別府で温泉につかり、2日目も夜行列車で宮崎に向かう。途中、大分や佐伯では闇の中ではあるが、車窓からD51の運転席が明るく息づいているのが見えた。早朝、宮崎に到着。生憎の雨模様だった。明るくなってから、許可を得て機関区に向かう。夢にまで見た、南国のパシフィックに出会うことが出来た。C57は9、39、113、187、199。C11 86にも火が入っていた。

そうこうしている内に、続々列車が到着する。まずは都城方面から、旅客列車(1526レ)が進入してくる。牽引機は山陰から転属してきた重油タンクを装備したC57 41。次がお目当ての延岡発旅客列車(535レ)。『SLダイヤ情報』によると唯一残ったC61 1 8 がその牽引機の予定だ。宮崎駅構内の南延岡よりでカメラを構える。やってきた。ファインダーを通してでもわかる。ボイラーが細い。C61ではない。しかもナンバープレートが赤い。最後のお召機C57 117であった。C61でなく残念と思う気持ちと、最も会いたかったC57に会えたという感動とが複雑に混ざり、何とも言えない気持ちだった。

発車までの間、C57 117にしばし見惚れる。本当に美しい。子供ながらにそう思った。C57 117を見送った後、南延岡方面からC57 169の客車列車(537レ)、都城方面からC57 196の貨物列車(560レ)が次々に到着する。そろそろ志布志に向けて出発する時間だ。「とうとうC61 18には会えなかった」と落胆しかけていたところ、突然、南延岡方面から蒸機が単機でやってきた。何とC61 18ではないか。限られたカットではあったが、写真に収められたこと、何よりも出会えたことに興奮を覚えた。

日南線の車中の人となる。途中、青島海岸など風景をぼんやり眺めたり、C11牽引の貨物列車との交換を撮影したりした。志布志機関区にはC11の161、194、195、そしてお召機の200、そしてC58 112が休んでいた。C58と言えば、鷹取式集煙装置に重油併然タンクが定番の亀山のカマを見慣れたせいか、門デフの112号機はとても新鮮に感じられた。志布志では短時間のみの滞在で、今は無き志布志線で都城に向かう。岩川ではC58 227牽引の貨物列車(495レ)と交換。都城では先ほど宮崎で出会ったC57 41と124、D51 160、C55 52、C56 135などがたむろしていたが、乗換えのみで吉松に向かう。

今回の旅の主目的は、C55に出会うことだった。宮崎では出会うことはなかった。都城では52号機を一目だが見ることができた。吉都線の気動車に揺られながら、吉松では57号機に出会えれば、と祈るような気持ちでいた。

吉松に着いた頃、あたりはかなり暗くなり始めていた。何人かの鉄ちゃん仲間と共に、機関区に向かう。数機のカマが黒い煙を上げている。果たしてC5557はいるのか。表に出ているカマはD51918と1038。共に門デフ装備機。門デフのC57154も庫から顔を出している。門デフが高い位置に取り付けられているこのカマは、見上げる角度からの姿は、何とも言えずにカッコいい。庫の暗がりの中で、赤ナンバーのC5611が蒸気を吹き上げている。その奥に、もう一輌いる。やった。まぎれもなくC5557だ。しかも庫から出ているので、全体を見ることができる。門デフにスポーク動輪。スマートなボイラー。均整のとれた機械美がそこにはあった。

親父に手伝ってもらい、プレートの拓本をとる。少し変色したが、コンテで浮かび上がった「C55 57」の拓本は、今でも私の宝物だ。

吉松ではよほど興奮していたのだろう。現像して出来上がった写真を見て大いにがっかりした。とにかくピンボケの多こと。しかし、C5557やC57154に出会えたこと、そしてその時の感動は30年余の時間が経っても、今なお色褪せることはない。完全に暗くなった吉松から、急行「えびの」に乗って宮崎に戻る。いよいよ、明日は最終日だ。

翌朝、前日とは打って代わり、宮崎の空は晴れ渡っていた。急行に乗って南延岡に向かう。途中、C579牽引の貨4589レ、C57117牽引の客535レ、D51505牽引の貨567レと交換する。南延岡機関区では数機のD51と共に、C12 167、C57 186、78626を撮影する。

立ち去ろうとした時、最後のプレゼントはやってきた。D5145が機関区に帰ってきたのだ。初めて見るナメクジ。何カットも写真を撮ったのは言うまでもない。関西出身という地域柄、D51は鷹取式集煙装置付きに限ると決め付けていたが、ナメクジはボイラーの角に丸みがあり、全体的にすっきりしていて優雅だ。すっかり好きになった。

すべてが大満足の九州撮影旅行であった。その日の内に京都に戻るつもりだったが、接続がうまくいかず、結局、最後も広島発の夜行列車「音戸」に乗る羽目になった。4泊5日の旅のうち、何と3泊が夜行列車での車中泊だった。その時、親父は45歳。今の私とほぼ同い年だ。相当、辛かったに違いない。しかし、一度も私に対して文句は言わなかった。怒ることもなかった。それから約2年後、父は急逝した。この九州SL撮影旅行は、私にとって親父との最大で、そして最後の思い出になった。

唯一旅館に泊まった宮崎の夜を、私は忘れることが出来ない。吉松から宮崎に着いて、親父は駅前の寿司屋に連れて行ってくれた。今まで、寿司は出前で取るものだとばかり思っていたが、カウンターに座ると、次々と板前さんが寿司を握って出してくれるではないか。親父は手でそれをつまみ、口に運ぶ。私もまねをして手で寿司をつかみ、醤油をつけて口に頬張る。何か大人になったような気がした。

旅館に着き、風呂に入って寝床に着く。久しぶりの布団だ。親父が私に背を向けて寝ている。広い背中を見つめながら、親父に感謝の気持ちを抱いた。素直に愛情が湧き上がってきた。その時の親父の背中は、今でも脳裏に浮かぶ。仕事を休んでまで、わざわざありがとう。

蒸機もそれから2年後、全国から姿を消した。約30年の歳月が流れ、仕事の関係で人吉に行くことがあった。1泊して、本来、帰りは直接、鹿児島空港に向かい、東京に戻るはずだったが、早起きして、肥薩線で吉松に向かった。吉松に着いたとき、レールはなくなっているものの、だだっ広いヤードに昔の光景をかすかに思い起こすことができた。ああ、ここにC55やC57、D51がいた。数条の煙が上っていたんだ。駅前の広場にはC5552が保存されている。ボディはペンキでギトギト。プレートも赤く塗られている。しかし、この特徴ある門デフとスポーク動輪には、確かに見覚えがある。また会えた。いや、火は落ちても生き残っていた。率直に、それがうれしかった。

「なくなるもの」への哀愁は、誰もがその時に感ずる。でも、もっと大切なことがあるような気がする。「なくなったもの」が、果たして記憶として残っているか。人の心の中で、生き続けているか。私の心の中に、ずっと親父は生きている。そして、出会ったカマたちも、今でも蒸気と煙を上げながら、生き続けている。


以上