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前原誠司の「直球勝負」(46)
〜21年ぶりの新日鐵君津製鉄所〜
2007年12月21日、松下政経塾在塾中、研修担当をして頂いた矢野純男さん(現・新日鐵関連会社々長)に連れられ、21年ぶりに新日鐵君津製鉄所を訪れた。松下政経塾に入塾した1987年の6月から8月の約2ヶ月間、宮田義二・松下政経塾々長(元・新日鐵労組委員長、元・鉄鋼労連会長、元IMF−JC議長)のご推挙により、現場で3交代の労働研修をさせていただいたが、それ以来の訪問になる。君津製鉄所は木更津、君津、富津の3市にまたがり、広さは東京ドームの約220個分ある。ちなみに、第4高炉は「華麗なる一族」のロケに使われ、俳優の木村拓哉さんが度々、撮影に訪れたらしい。研修当時、私は第二製鋼工場第二転炉掛に配属された。転炉に、高炉から生産された銑鉄とスクラップが挿入され、高圧酸素を送り込むことで不要な炭素分などを取り除き、二次精錬と呼ばれる成分調整を行った上で、ニーズにあった「鋼」を作り出す。
今もそうだが、当時も鉄に関する専門的な知識は全くない。お手伝いできることと言えば、トイレや作業場の掃除、二次精錬の際にアルミニウムやマンガンなどを投入するお手伝い、転炉内部に敷き詰められているレンガの修繕などだった。とにかく暑い職場だった。当然、耐熱の防火服を着て作業する。一時、風邪をひいたのだが常に汗をかく職場だから、気がついたら治っていた。両足には重い金属が落ちても大丈夫なように、硬いゴムでできたブーツを履く。工場内での挨拶は「ご安全に」。この挨拶の言葉は、今も変わらない。
今回の訪問で特に嬉しかったのは、私が研修していたときの責任者の方々が、わざわざお出迎えいただいたことだ。業務調整作業長をされていた御厨義則さん、B組炉前工長だった福島直さん達だ。懐かしい顔が並ぶ。私のことも覚えておいて下さり、感激した。転炉という場所は溶けた銑鉄が飛び散る危険な場所だ。何度も叱られ、注意を受けた。強面の方々だったが、勤務が終ると、よく飲みに連れて行ってもらった。夜勤明けの、朝飲むビールは実に美味しい。また、グランドで一緒に野球をしたり、一泊旅行にも連れて行ってもらった。短い研修期間だったが、本当に可愛がってもらった。
研修当時はプラザ合意直後の円高で、新日鐵を含め鉄鋼大手5社はすべて赤字を計上していた。新日鐵では高炉を削減して、配置転換、出向を大胆に進めていた。私がお世話になった方々は叩き上げの方々ばかりだ。「鉄は国家なり」の時代。高校や専門学校を卒業後、新日鐵(前身の八幡製鉄所、富士製鉄所)に入るというのは誇りだった。しかし、そういった方々が肩叩きにあい、片道切符の出向。職場は同じでも、関連会社に変わる訳だからヘルメットの色も変わる。そのような現場の苦悩も、飲みながら色々と聞かせてもらった。3交代勤務は、たった2ヶ月でも辛かった。それを定年まで続けるのだから、体に良い訳がない。「満コロ」(満期で、つまり定年でコロッと亡くなる事)という言葉も耳にした。八重原社宅に寝泊りさせてもらったが、社宅前の道路は広くなっていたが、社宅の雰囲気はあまり変わっていなかった。
21年の歳月を経て、製鉄業界を取り巻く状況は大きく変わった。円高、バブルの崩壊、金融不安などによる苦境を技術力向上などの様々な経営努力でくぐり抜け、中国を筆頭とする新興国の旺盛な需要の恩恵を受けて完全に息を吹き返した。しかし、素晴らしい技術やマーケットを持っていることが、皮肉にも今や買収の脅威に晒されることになった。インド人のミタル一族は、スクラップを扱う一介の鉄工所に過ぎなかったが、買収につぐ買収を繰り返し、ついには欧州の名門・アルセロール社を買収し、アルセロール・ミタル社は、新日鐵の3倍以上の鉄鋼生産量を誇るまでに膨れ上がった。次のターゲットは高い技術力を誇る新日鐵だとも言われている。手法は時価総額を背景に、株式交換によって買収を行うというもの。折りしも、日本でも会社法が改正され、三角合併が行えるようになった。新日鐵は今、国内鉄鋼メーカーのみならず、新日鐵の技術協力によって生まれた韓国のポスコ(前身は浦項製鉄所)、中国の上海宝鋼集団(前身は宝山製鉄所)との連携・協力を進めたり、個人株主対策を充実させ、アルセロール・ミタルの来襲に備えている。我々政治の場にいるものとして、公正なルールと法整備、そして何よりも日本全体の時価総額を上げるための様々な取り組みを行うことによって、日本企業の存続・発展に貢献しなければならない。大きな世界の変化に、企業だけではなく政治も対応しなければならないのだ。
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