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前原誠司の『直球勝負!』

前原誠司の「直球勝負」(38)

〜 知覧特攻平和会館で考えたこと 〜

8月18日と19日、鹿児島県を訪れた。松下政経塾の先輩である打越明司(うちこしあかし)さんの女性会総会に出席するためだ。18日の夜は指宿市山川町で「あやめ会」が、19日は昼に鹿児島市で「さくら会」が盛会裏に開かれたが、14年間、鹿児島県議会議員を務め、今度の衆議院選挙に民主党公認で鹿児島2区から立候補する打越さんの地方再生への熱い思いを聞くことができた。

今からちょうど20年前、松下政経塾の入塾式の次の日に、私は国鉄の指宿駅に降り立った。初めて県会議員に挑戦する打越さんの選挙のお手伝いをするためだった。思い出として残っているのは、個人演説会での地元の方々の応援演説が、さっぱり理解できなかったことだ。「ここは日本か」と思う位、方言が理解できなかった。保守地盤の強い土地柄。初戦は敗れたものの、2回目からは定数1の選挙で勝ち続け、いよいよ国政に挑戦だ。是非、打越さんには頑張って議席を獲得してもらいたい。

19日の午前、知覧特攻平和会館を訪ねた。知覧を訪れることは、私の長年の念願だった。元陸上自衛官の川床剛士(かわとこたけし)さんから説明を受ける。無駄のない、それでいて心のこもった話し方に、人柄が伝わってくる。太平洋戦争当時の戦闘機なども展示されているが、何と言っても、知覧から特攻隊員として出撃して亡くなった1036名の遺書などの遺品に、自然と足が止まる。胸が締め付けられ、目頭が熱くなる。死に直面して、これほど潔く散っていった先達たちがいたのか。この境地に至るまでの葛藤、苦しみは、如何ばかりであっただろうか。改めて、心からご冥福をお祈り申し上げたい。

川床さんの説明で嬉しく感じたのは、最近、小中学生の訪問が増えているということだ。戦争礼賛につながるのではないかとの懸念から、以前は躊躇する学校や先生が多かったそうだ。しかし、今や多くの子供達が、命の尊さ、戦争の悲惨を実感するために、知覧を訪れる。この日も、夏休みということもあり、多くの家族連れが訪れていた。

若い兵士で17歳。多くが二十歳前後の若き青年だ。昭和20年の戦争末期、敗色濃厚の日本が最後に考え出したのは、戦闘機による米艦船への体当たり作戦、「特攻」だった。何と惨い(むごい)ことか。兵士達の「遺書」「絶筆」に触れることは、決して戦争礼賛であってはならない。特攻隊員の死は、「遺書」「絶筆」を通じて戦争の悲惨さ、残酷さ、そして生命の尊さを改めて教えてくれる。二度と戦争を起こしてはならない。戦争を繰り返すことは、1036柱の英霊の死に報いることにならない。そう心に刻み込む。

それと同時に、「遺書」「絶筆」は、肉親に対する心からの叫びを、様々な形で書き綴っている。何と純粋で、切ないものか。この「遺書」「絶筆」で、多くの肉親が救われ、苦しみ、そして生涯を通じての心の支えにしたに違いない。幾つかの「遺書」「絶筆」を紹介することで、私の恒久平和への思いに代えたい。



相花信夫少尉(宮城県出身 戦死日 昭和20年5月4日 享年18歳)
母を慕ひて
母上お元気ですか
永い間本當に有難うございました
「我六歳の時より育て下されし母
継母とは言へ世の此の種の女にある如き」
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福だった
ついに最後迄「お母さん」と
呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったらう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでせう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと。

久野正信中佐(愛知県出身 戦死日 昭和20年5月24日 享年29歳)
正憲 紀代子へ
父ハスガタコソミエザルモ イツデモオマヘタチヲ見テイル。ヨクオカアサンノイヒツケヲマモツテ オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシテオホキクナツタナレバ ヂブンノスキナミチニススミ リツパナニッポンヂンニナルコトデス。ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。「マサノリ」「キヨコ」ノオトウサンハ カミサマニナツテフタリヲヂツト見テヰマス。

フタリナカヨクベンキヨウヲシテ オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトウサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケレドモ フタリナカヨクシナサイヨ。オトウサンハオオキナヂユバクニノツテ テキヲゼンブヤツツケタ ゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニナツテオトウサンノカタキヲウツテクダサイ。

父ヨリ
マサノリ   フタリヘ
キヨコ

宇佐美輝夫少尉(福島県出身 戦死日 昭和20年7月1日 享年18歳)
遺書
御母様 愈々これが最後で御座います。
小さい時より御母様には御心配ばかり御掛けして来た私ではありますが、今こうして出撃命令を受け取ってみますと何だか一人前の男になったような満足感が全身を走ります。
愈々一人前の戦闘操縦者として御役に立つ時が来たのです。前にも書いた通り一家の名誉にかけても必ず必ず頑張ります。
御優しい、日本一の御母様
今日、トランプの占いをしたならば、御母様が一番よくて、将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです。御父様も日は長くかかるが帰ってきて一緒に暮らすことが出来そうです。輝夫は本当は三十五歳以上は必ず生きるそうですが、而し大君の命によって国家の安泰の礎として征きます。御両親様の御写真は一緒に沈めることはいけないことなのだそうで、今ここに入れて御返し致します。

毎日、輝夫の行動、操縦等を残らず見ていて下さった御優しい御写真と今日、別れると思うと、実に淋しいものがあります。御写真と御別れしても天地に恥じざる気持にて神州護持に力めます。短いようで長い十九年間でした。よい事も悪い事もすべて諦め忘れてただ求艦必沈に努めます。

発表は御盆の頃でしょう。今年の御盆は初盆ですね。山を眺めると福島の景が想い出されます。

日本一の御母様、何時までも御元気で居て下さい。御父様には別に書きません。蒙古には連絡が取れないと想うからです。では元気に、輝夫は征きます。
永久にサヨーナラ。

翼折れ操縦桿はくだくとも
求めて止まじ敵の空母を
沖縄に身ごと突込み散るさくら
空母は冥土の途づれに
特攻と散りゆく桜花吹雪
晴れの初陣生還を期せず

御母様へ

藤井一少佐(茨城県出身 戦死日 昭和20年5月28日 享年29歳)
冷え十二月の風の吹き荒ぶ日
荒川の河原の露と消し命。母と共に殉国の血に燃ゆる父の意思に添って一足先きに父と殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで母と共に消え去った幼い命がいとおしい。
父も近く御前達の後を追って行けることだろう。
厭がらずに今度は父の膝に懐でだっこして寝んねしようね。
それまで泣かずに待っていて下さい。
千恵子ちゃんが泣いたらよく御守しなさい。
では暫く左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄をたてて御土産にして参ります。
では、
一子(かずこ)ちゃんも、千恵子ちゃんもそれまで待ってて頂戴。

伊藤甲子郎少尉(秋田県出身 戦死日 昭和20年6月8日 享年20歳)
時期到来出撃の大命を拝し只今より出撃せんとす。
大和男子の本懐之に過ぐるものは有りません。
笑って悠久の大義に生きむ。長い間色々と御心配ばかり御かけ致しまして誠に申し訳有りませんでした。何卒御許し下さい。
妹弟達の御養育を切に御願い致します。
甲子郎の御厄介になりました方々に御礼状を出して戴きます。
永遠にさらば。
最後に
父上母上の御健在を御祈り致します。
三十一日
出撃に当りて
敬具

父上様
母上様
甲子郎

1036柱の英霊に対し、恒久平和の祈りを込めて、改めてご冥福をお祈り申し上げます。               
合掌